癒しの窓

夢人さんの辻説法 三部作 ※夢人さんは、院長のペンネームです。

長嶋茂雄か王貞治か 

 夫婦関係や友人関係などで、性格が全く正反対の者がペアになっていることがあります。変な話ですが、酒癖が悪くて暴力をふるう夫のそばで従順に仕える妻の姿を見たことが何度もあります。ドメスティックバイオレンス(DV)といわれる近親者への暴力行為でも、同じような関係が見られることがあります。SM(サドマゾ)関係はそれが極端な場合なのかもしれません。
 さて、“巨人軍は永久に不滅です”と引退した元読売巨人軍の長嶋茂雄氏の天覧試合でのホームランは、今でも語り草になっています。彼はなぜあの場面でホームランを打てたのでしょうか。長嶋氏を思い出す時、常に頭をよぎるのが、同じく元読売巨人軍の王貞治氏です。お二人(以下敬称は省略します)を較べることは愚かなことでしょうが、あえて自分に対しても患者さん方にも「どちらが好きですか」と問うことがあります。多くの人が長嶋と答えるのですが、王が好きと答える人も同じくらいいます。もっとよく聞いてみると、嫌いな人がいない長嶋と、自分の生き方に似ているという理由で王になるような気がします。片や憧れ、片や目標とでもいったところです。
 二人の打撃フォームは、動と静です。来た球を打ち返すわけですが、待ち方と打ち方が全く違います。片や動で待ち、片や静で待ちます。片や線で打ち、片や点で打ちます。片や流れの中で打ち、片や呼び込むように打ちます。素人的にはそんなふうに映ります。
 さて、今日注目したいのは、お二人の性格や生きざまです。片や天真爛漫、片や質実剛健、片や自由奔放、片や堅実努力型。展覧試合でホームランを打てる直感天才型の長嶋か、一本足打法を編み出してホームランの世界記録を樹立した努力実績型の王か。皆さんは二人のどちらが好きですか。
 やはり白か黒かと二者選択を求めることは愚問でしょう。近代文明の発展に多大なる貢献をした現代科学は、白黒をはっきりさせることでその歩みが育まれました。その奥底には、今回の質問のように愚問性があるように思います。長嶋か王かではなく、長嶋も王もでしょう。元読売巨人軍、3番王貞治・4番長嶋茂雄でひとつの一貫した流れが完成するのです。
 心療内科を訪ねて来られる多くの方に共通していることがあります。その共通点とは、王的な生き方に疲れ果てていることです。これも努力と忍耐を美徳とする日本古来の文化の副産物なのかもしれません。努力も忍耐も根性も良いのですが、何か堅い鎧のなかで息苦しさを感じませんか。堅い鎧ではなくて柔らかな真綿の衣に替えてみてはいかがでしょうか。内と外との境界は曖昧になりますが、不思議と心のバランスがとれてきます。心だけではなくて、身体の調子もよくなってきます。堅くて高い目標を掲げていると知らず知らずに疲れますよ。心や体が悲鳴をあげ始めたら、そっと胸に手を当ててみて下さい。グランドで躍動する長嶋茂雄の姿を思い浮かべてみて下さい。几帳面で律儀であったあなたへ。3番ファースト王貞治、4番サード長嶋茂雄が完成した時、人生の目標と憧れが見えてきませんか。私たちがこの世に生まれてきた意味とは、そんなものではないかと最近思うようになりました。外に王貞治、内に長嶋茂雄。その逆でもいいでしょう。内外の調和と融合、そしてバランス感覚に注目してみましょう。
静から動へ 人生の展開 転回しながらも平和   夢人
平成26年10月13日
台風19号迫る 夜半の目黒

(2)私は女性が好きです① 

 先日、「私は女性が好きです」という女性と話をする機会がありました。30年来の友人ですが、そんな話を聞いたのは初めてでした。そういう話になったきっかけは、私が彼女に何気なく「あなたは嫉妬をすることがありますか」と尋ねたことからでした。彼女は既婚者ですが、恋愛経験がどれくらいあるのかは聞いたことがないのでわかりません。彼女の答えはこうでした。「嫉妬することはありますがそれは一瞬で、長引くことはありません。嫉妬をすると煩わしいでしょう?嫉妬をするくらいなら、そのエネルギーを他のところに廻した方がいいと思います。」その後彼女の口から出たのが、「私って女性の方が好きですから。男性って煩わしいでしょう?」という言葉でした。
 私は今日まで58年間、多くの女性と接してきましたが、そうした話を聞いたことはありませんでした。私は彼女に興味を抱き、彼女の性格や立ち振る舞いなどを思い出してみました。彼女とは長い付き合いですが、確かに声を荒立てたり、感情的になったりする場面がほとんどないことに気づきました。穏やかといえばそう、寛容といえばそうです。彼女のそういった性格は、ひとつの言葉で表現することは非常に困難です。彼女の性格をいくつかの言葉で表現するならば、誰とでも上手に付き合える人、苦手な人が少ない人、敵を作りにくい人、対人関係が上手な人…。巧みな距離感を持っている人なのかもしれません。彼女の生い立ちの大方は聞き及んでいましたので、そうした性格傾向になったのも頷けます。
 さて、私は『平成ジャンヌ・ダルク構想』と称して21世紀の在るべき社会観を考えてきました。詳細はここでは省かせて頂きますが、彼女が発したその一言は、今回の構想の基本理念になりそうなのです。
 女性が女性を好きといえば、同性愛ということになりがちです。しかし今日はそうした観点ではなくて、女性が女性性を求めるという関係性についてです。女性性(母性)とは、包み込む、繋ぐ、育むといった意味です。片や男性性(父性)は、切断する、競争する、闘うということになります。両者は全く正反対の意味合いがあります。好戦的ではなく友好的、競い合うことではなく協調することが母性の特徴になります。
 新しい時代は、母性を先導させることが大切になると思います。相手に嫉妬心などがなくて感情が安定していると、私まで落ち着いて穏やかになります。知らず知らずのうちに固くなった心が融けていきます。好き以上、愛している未満。そんな関係がいいかもしれません。お互いに傷つけられず、逆に守られます。彼女の生き方は静かなのに、私の心の中に感動の嵐が吹き始めました。
母恋し 父は遠くで見ていて下さいね   夢人
平成26年11月
もうすぐ箱根路へ

(3)冠婚葬祭はご無礼しています 

 早いもので、今年もまた12月がやって来ました。師走は何かと慌しいものです。でも、若い頃とは違ってその感覚も薄くなったように思います。20代から30代はとても慌しかったですね。仕事もそうでしたが、忘年会やクリスマス会、何かにかこつけては、休む間もなく会食などの予定が手帳にぎっしり書き込まれていました。毎年12月24日になると、判で押したように自宅のテーブルの上に1枚の小さなメモ紙が置いてありました。妻と子どもが実家に帰ってしまうのです。毎晩酔っ払って帰宅しては、朝早くに仕事に出かける姿に愛想が尽きて疲れ果てたのでしょう。丁度子どもたちが冬休みに入るタイミングを毎年逃しませんでした。年の瀬は迫って来るし、年末になると12月の慌ただしさと賑わいも静まってくるのですから、淋しさが募ってきます。
 今思えば、よくもまあ毎日毎晩出掛けたものだなと感心します。ところが30歳半ばになると、こうした様相が一変しました。忘年会や新年会などには出席しなくなりました。年賀状や暑中見舞の葉書も書かなくなりました。(今でも戴いたものに対しては、気持ちが向くものにだけは後日返信はしていますが)。究極は、結婚式やお葬式にもご無礼して出席しなくなりました。(気持ちが向く場合には電報は打っていますが。)そんなこんなでもう20年以上が経ってしまいました。お陰さまで、随分と身軽で気楽になりました。我儘な奴だとお叱りの声があることは重々分かっています。お陰さまで盆暮れの届けものも、年賀状などもめっきり少なくなりました。今では結婚式の招待状など皆無です。しかし、問題があります。それは親の葬式と子どもの結婚式をどうするかという難題です。私は常々周囲にこう言い放っています。「私が死にそうになっても、救急車など呼んで病院に運び込むな」、「私が死んだら葬式はするな。火葬はしてもしなくてもいいけれど、骨を墓所に入れるな」、「法要など必要ない。この世に生きている時に楽しもう」などと、口うるさく伝えています。0葬(ゼロ葬)というものでしょうか。私は周囲の大切な人たちとは、少しずつ生前葬を繰り返しています。何故かというと、その方がお互いに今の瞬間を大切にしようという気持ちになるからです
 私は人が多く集まる場所が苦手です。好きではありません。だから努力に努力を重ねて、『変わり者』とか『馬鹿じゃないの』とかの叱責や罵声に堪えて、やっと今の環境を作り上げました。社会通念とか、常識とか、慣例とかいったものには、どことなく嘘っぽさを感じてしまうのです。『隣家がやっているから我家もしなけれならない』という横並びの流れに乗ることに、どうしても馴染めないのです。
 このコラムを読んで初めてそういう奴だったのかと思われたかもしれませんが、こんな私ですのでお見知りおきのほど宜しくお願い致します。どうか結婚式やお葬式には呼ばないで下さい。遠くからお喜び、お悔やみ申し上げます。忘年会や新年会などへのお誘いもお断りすると思いますので、宜しくお願い致します。気心が知れた、和気あいあいとした、少人数での会食には出向きますので、悪しからず。
我儘を通しに通して 通らぬ愛の魔の手   夢人
平成26年12月
嵐の目黒大橋

(4)お年寄りエネルギーの動的平衡 

 最初に断わっておきますが、ここで言う「お年寄り」とは、限りなく生に近い年齢層の子どもたちと、限りなく死に近いいわゆる高齢者の方たち(お年寄り)といった限りなく生と死に寄った年齢層の人達の事を呼んだものです。
 現在の日本は、少子・超高齢化の人口構成です。こうした傾向になったのは、色々な原因があると思います。結婚率の低下に晩婚化などが少子化を、医学の発展や栄養状況などが長寿化・高齢化をもたらしたのでしょう。
 今朝のテレビが今年もまた出生率が低下したことを知らせていました。厚生労働省の人口動態統計の年間推計では、出生率の低下と戦後最多の死亡率の増加を発表していました。8年連続で国内人口は減少しています。
 私の中に今、こんな考えが二つ沸き起こって頭を支配しています。ここから先は私の勝手な妄想ですので、信用しないで下さいね。
 現在、世界の総人口が70億人位でしょうか。そして今も発展途上国を中心に、人口は増え続けています。ここで一つの疑問が出てきます。果たして私達が暮らすこの地球が、これほど膨大な人口を抱えきれるかどうかです。もしも限界を超えているとしたら、地球自体がエネルギーを消耗して、破滅の道を歩むのではないだろうかという疑念が湧いてきます。そうなったら怖いこと。この話はここまでにしましょう。
 さて、もう一つの妄想の方ですが、地球がこのまま寿命を全うするとして、過剰に膨れ上がった人口過多による消費エネルギーは次に何をもたらすのだろうかという疑問が出てきます。我が国の少子高齢化現象と何か関係はないのだろうかという疑問です。
 平均寿命が延びて高齢化社会になり、様々な原因で少子化傾向になっていますが、この少子化現象は先に述べた晩婚化や出生率の低下だけが原因しているのでしょうか。国は来年度の予算に子育て支援の財源を入れましたが、果たして出生率は上昇してくるのでしょうか。若い夫婦、特にお母さんの意見に子育てへの不安が聞かれますが、国が考える様な施策で子供を産もうと思うのでしょうか。子供を作るより自分の幸せを優先するという個人主義的な考えも侮れません。ですが、今日このテーマの妄想に駆り立てられたのにはもっと別の意味があります。
 食糧危機にあるアフリカやインドなどの国々では、なお人口は増え続けている流れがあります。そこでこの人口密度が高い我が日本が、今後向かうべき方向性が問題になります。今、その舵取り役が廻ってきたと考えてみてはいかがでしょうか。
 この地球の限られた生命エネルギーのバランスを取るために、日本の人口は減っている。これが妄想の核心です。高度経済成長の煽りを受けて、後遺症が出てきているのかもしれません。環境汚染で生気を失った土地や空気は、新しい生命を誕生させる能力はないのかもしれません。さらに、PM2.5ではありませんが西からの偏西風に乗って地球の生命エネルギーの補正を目的として、人口減少を命じられた謎のエネルギーが日本の上空を覆っているのかもしれませんね。これが私だけの妄想で終わってくれればいいのですが。妄想が妄想でなくなった場合の事を心配しています。国が打ち出した少子高齢化対策だけでは、この国は持ちこたえられないような気がするのです。
 最近愛する夫を亡くした高齢の御夫人が、毎日泣きながら一人ぼっちで暮らしています。ご本人は住み慣れた田舎を離れたくないと言われますが、遠方で暮らす娘さん達は今後どうしたら良いのか心労しています。
 子供が欲しくて、人工授精でやっと授かった子供さんが原因で、ご夫婦の間に亀裂が入りそうな方が昨日来院されました。共稼ぎをしないと生活が苦しいのに、高熱を出し続ける子供の面倒を誰が看ていくのかで思案に暮れていました。ローンがあって、ご夫婦共に仕事が辞められないのです。
 先日関東大震災の特別番組を見ていた時に、ふと頭の中をよぎった事がありました。それは年々増え続ける天変地異、世界各地で勃発する紛争、ウィルスなど奇病の猛威などは何か共通する原因があるのではないかということでした。勢いが止まらない自殺者の増加などもそうかもしれませんが、災害や病気、事故などで人が亡くなっていく現象と、世界人口の推移との間に何らかの関係があるのではないでしょうか。
 世界の人口は増え続けています。ところが、日本の人口は減り続けているのです。この人口減少の原因は色々言われています。世界が豊かになり過ぎたからとか、性別の中性化(男性の女性化)とか、環境汚染による遺伝子の突然変異など色々あるでしょう。
 世界の総人口は70億人、我が国が1億2千万人位。この狭い島国の中に1億人以上のひとが暮らしているのです。おまけに平地が少ない山岳の国です。森林を伐採して、無理を重ねて暮らしています。奈良や江戸の時代では考えもしなかった光景でしょう。
 さて今日の論点を思い切って妄想してみましょう。我々が暮らすこの地球が抱えきれる人口は限りがあって、地球はその限界に達しているのではないでしょうか。少子高齢化社会の真只中にあって、人口減少に歯止めがかからない状況にあります。愛してやまない日本の未来を穏やかなやさしい国へとソフトランディングさせなければなりません。寝たきりにならずに天寿を全うできる国へと歩んでいかなければならないでしょう。こうした中で、日本の国土に合った適切な人口構成が生まれてくるのではないでしょうか。新しい国づくり・新しい生き方・新しい考え方とは何でしょうか。
 次回は、先日週刊誌に掲載された、今は亡き宇野千代さんを偲ぶ瀬戸内寂聴さんの想いなどをご紹介しましょう。
桜散り 季節はずれの台風 吹き返しの風に 緑立つ   夢人
平成27年5月
新緑の目黒川

(5)占いと友 

 久しぶりに夜の博多の街を散策してみた。景気が回復しているのか、九州一の繁華街の中州も賑わっていた。学生時代にアルバイトをしていた那珂川沿いにあるクラブの前で、しばらく立ち止まって昔を想い出してみた。この店の屋号を取って娘の名前にしたこと。魅力的だったママの名前も同じだったこと。
 同級の女性から食事に誘われていたので、中州から少し離れている指定された店に向かった。途中、行列をなしている光景が目に入った。行列の先には、男性の占い師が座っていた。彼とお客の顔は、急接近して見つめ合っていた。
 ひとしきり飲んで食べて、ふと彼女の顔を見ると表情がすぐれない。理由を聞くと、家族のことで悩んでいるらしかった。親と子の考え方の相違で、自分と違う考え方をしていて、どうも子どもが常識的ではないということだった。だから自分が常識的だと言わんばかりの論調だったと思う。それよりも驚いたことがある。彼女は、悩み事を友人から紹介された占い師に相談していた。そのこと自体は世の中にはよくある話である。さっきも占い師の前の行列を見てきたばかりだった。問題は、彼女がそういう類いの世界に足を踏み入れたことだった。私も仏門の頃からその道のことは少し勉強して、これまでに何人もの人に助言(予言?)をしてきていた。以前の彼女は、話は聞くものの現実主義を貫き通し、私の話にも鼻で笑うような印象があった。私に対してではなく、そうした世界のことを胡散臭いという言葉で締めくくっていた。なのに今回は雲行きがおかしい。
 今回彼女が私を食事に誘った目的は、その占い師(拝み屋?)について意見を聞きたかったのだった。しかし、私の意見は彼女の思惑と違っていた。私が『先のことは誰にも分からない、今の瞬間を全力で生きるしかない」と話した時に、強い反論をしてきた。彼女曰く、「先生は占いや拝みの世界をよく知っていて、この何十年も私に話してきた。今先生がされている宇宙エネルギーを使った治療も、目に見えない世界のことでしょう。目に見えない世界のことを大切にされているのに、同じ見えない占いの世界をどうして否定されるのですか」という論理だった。学生時代からの長い付き合いだが、彼女との終わりを予想した。
 その世界をかじった者として、今の私の考え方を残しておこうと思う。占いは裏成るというようだ。裏が成り立つというわけだ。邪推すれば表も裏もとなれば、何でも成立することになる。昔、私を騙した僧侶がいた。彼は僧侶の肩書を掲げて易や占い、そして拝みでもって多くの相談者を迎えていた。
 そして私を騙した。
 彼の自宅(寺院)の地下の書庫に案内されたことがあった。何万冊という本がぎっしりと並んでいた。物理学や医学の専門書もあった。もちろん仏教関係の書物も多く、易学や占星術などの本も所狭しに並んでいた。要り様なら貸してもいいと言われたが、それはしなかった。書籍の間の暗く狭い通路を歩いていると、一冊の本が目に入った。本のタイトルは忘れてしまったが、今でもその本を手にした時の彼の説明は鮮明に残っている。占い師の裏ワザのハウツウ本だった。要するに占い師のバイブル本で、今でいうベストセラーになっていた。その頃すでに絶版になっていて、世の中に出回らない貴重なものだと僧侶が言った。暗がりであったが、読み方によってはバイブル本というより占い師の詐欺のテクニックが綴られていた。裏も表も話せば誰でも信用する、といった類の内容だったと記憶している。そして、彼は私を騙して多額の金を巻き上げていった。卑劣な奴だ。
 中国で完成した易学は、数学であり統計学である。中国の漢方と同じように、長い間の経験から生み出されたものだから、大きな間違いはないと考えられる。気候などの自然現象などを基盤にした気学も、重要な領域だと考えている。だから、同じような流れの中にある占術も、頭から完全否定しているわけではない。
 胡散臭いと言い放って、見えない世界に対して一度たりとも理解しようとしなかった彼女が一転して、たった一人の某占い師の言葉を信じて判断を委ねているところに危うさを感じるのである。猜疑心の強い彼女が信じ始めたのは、占い師との次のようなやりとりがあったことだ。認知症の発病が心配される実家の母親の家の部屋に、占い師が予言(霊視)した通りに“赤い壺”があったこと。決定的だったのは、不倫関係にある男性(どうも私のことらしいが実際はそうではない)がいて、これまでに色々相談してきただろうと指摘されたことだったようだ。その日まで私の許に二度、彼女から占い師が予言する内容を確かめるようなメールが来ていた。彼女は、しきりに「あの占い師はよく当たるのよ」と言っていた。二十年前、地下鉄に猛毒サリンを撒いて多くの犠牲者を出し、世界を震撼させた某新興宗教団体の事件や、最近芸能人が奇異な行動をとって注目を集めた洗脳状態があるが、まさしく彼女は完全に洗脳されているようだった。後日彼女から、「私は身内のことで悩んでいました。苦しく藁にもすがりたかったのでしょうか?」とのメールがきた。しかし、占い師への洗脳(?)は続いているようだった。
 彼女にも言えることだが、誰でも追いつめられると藁にもすがりたい気持ちになるものだ。救いを求めて宗教に走ったりするのも同じ理由からだろう。そこには視野狭窄(思考狭窄)の状態になっていることを忘れてはいけない。いわゆる、“洗脳されやすい状態”ともいえよう。自分の人生だから、その時の判断はそれぞれ自分の意志によって下されてもいいだろう。しかし、そこには大きな落とし穴が潜んでいることが多いものだ。結果として騙されてしまうことだってあるだろう。
 今回の彼女のように、人は追い込まれて八方塞がりになると、見えない世界のことでもある刺激(今回は占い師)で、見える世界のことのように認知されること(錯覚)があるので注意しなければならない。見えない世界を考える時、特に見えない世界を語る人は次のことに注意しなければならない。
 1)相手を不安や恐怖にさせることなく、安心感を与えること。
 2)洗脳するのではなく、共に考えて同行すること。
 3)鑑定料などと称して、料金を取ってはいけない。
 4)見える世界との整合性を観察すること。
 5)過去でもなく未来でもなく、今この瞬間に全勢力を傾けること。
 6)先のことは誰にも分からないこと。
 7)苦楽の人生、今がすべてを物語っていること。
 注意することはまだ色々あるだろう。彼女が洗脳されているのであれば、洗脳から解き放たれるまで何年もかかるだろう。騙されて金を搾取されるかもしれない。人間関係が崩壊するかもしれない。ただ、彼女が幸せな人生であって欲しいと思うばかりだ。生命の本質は見える世界ではなく、見えない世界にあることは間違いないだろう。私たちの心や体が、大いなる大宇宙の中で重要となるパーツを占めているという自覚に目覚めることが大切である。この真理が理解できれば、祈りや願いのやり方も自然と感謝する心に行き着くはずだ。ましてや、願いや占うなどの行為は誰に向けられたものだというのだろうか。
祭りの準備に 心躍りし 哀しきや 祭りのあとは   夢人
平成27年6月
博多祇園山笠

(6)オンナの ピーターパン シンドローム 

 良くも悪くもオトコという生物は母親への憧れをもっているものです。優しい母親もいれば、厳しい母親もいます。先日のニュースでは、ある民家から何人もの産まれて間もない子どもの遺体が見つかったという、世間を驚かせた事件もありました。根っから冷たく残忍な母親もいるのでしょうね。
 オトコは母親の胎内で育ってきたこともあって、産まれ落ちてからも父親より母親との結びつきが強く、影響を受けやすいようです。以前どなただったか、「オンナは存在 オトコは現象」と表現していた人がいらっしゃったような。まさしく的を射た格言です。
 ピーターパンシンドロームはパーソナリティの障害で、未熟な性格がゆえに大人へと成長することを拒む男性のことを言います。もちろん最近でも、そういう匂いがする男性を時々目にします。さてピーターパンシンドロームはオトコだけにしか存在しないのでしょうか。大人になることを拒むオンナはいないのでしょうか。大人になることを拒む、これを言い換えて過去のオンナに執着したオンナとなれば。いますね、いますね。いっぱい、いますね。
 具体的にどういうオンナかといえば、代表的なのが「自分は失恋をしたことがない」とうそぶくオンナ。「一度もふられたことがない」と自信満々のオンナ。そのうえ始末の悪いことは、いつも丁寧な言動を心がけているに、身近な者に対しては横暴で高圧的に振舞うオンナは最低です。オトコを奴隷のように扱い、ヒステリックに罵る姿はまさしく駄々をこねる子供のままです。失敗や挫折の経験がないと、成長する機会を逸するのでしょう。失恋をしたことがない女性は、これから先もずっと失恋などすることはないと確信しているのでしょう。失恋するわけにはいかないと思っているのでしょうか。何やら不自然な自信は、身近なところで狂乱的な暴走を生み出しているような気がします。失恋をしたことのないオンナは、これからも失恋するはずがないし、失恋してはいけなのです。
 こうした呪縛の中で生きていると、過去の成功体験の世界から脱皮出来ないようで、成長が阻害されているようです。成功体験は気持ちがいいものです。ずっとその成功に浸っておきたいものです。しかし時間は容赦なく流れるため、私たちは次の成功体験を目指して努力し成長してゆくのです。ところが一部に、その努力と成長を放棄する者がいます。その時、その人のなかに未成熟な部分が残されるのです。これがピーターパンシンドロームの正体です。
 オトコだけではなく、オンナにも現れます。どちらも、その幼児性が荒れ狂うと厄介で、手に負えなくなります。幼くて可愛いのですが、牙をむくと周囲を巻き込んで混乱の世界となります。彼ら(彼女ら)をお坊ちゃま(お姫さま)と呼びます。
あっぱれ 優勝 石川遼 脱ピーターパン・シンドローム? 夢人
平成27年12月
ゴルフ日本シリーズ

2.夢人の風 -ストレス多き時代を生き抜く智慧の旅-

(1)ふたつの土俵 

 ある大横綱が悲願の優勝を果たした時のことを思い出しています。彼は、災害に遇って悲嘆のなかにあった被災地を慰問しました。そして、被災地の高校生を相撲部屋に招き、稽古をつけました。そして、子ども達にある誓いを告げました。次の場所では必ず全勝優勝すると。ところが終盤で一敗してしまいました。横綱は場所前から足の指を骨折して、思うように相撲がとれなかったのです。しかし、そのことを誰にも言わず隠し通しました。初黒星を喫して、子ども達との約束は叶いませんでした。そこで終わればただの美談になるだけでしょう。彼は結局14勝1敗で優勝を飾りました。普通の力士であれば、体に故障を抱えていて一敗したら、優勝には手が届かなかったのではないでしょうか。苦痛のなかで何が彼を奮い立たせたのでしょうか。
 今日も職場や家庭内でうまくゆかずに、うつ状態になって私のところに相談に来られる患者さんが後を絶ちません。上司からの理不尽なパワハラやセクハラ、職場のIT化についてゆけないといった理由、家庭内の不和など原因はさまざまです。
 Aさんの場合、時代の流れに適応できずにうつになって会社を辞めました。子どもの学校や家のローンなど悩みのタネが多く、八方塞がりでますますうつの度合いはひどくなるばかりです。抗うつ剤や、ありきたりのカウンセリングなどでは歯が立ちません。ふと、この方に前述した横綱の話をしてみたくなりました。理由は、この横綱の中に新たな土俵が生まれたのではないかという発想でした。骨折して一敗して、全勝優勝がなくなってしまったひとつの土俵。そして子どもたちとの約束を必死に守ろうとする新たな土俵です。後者の土俵には今までの横綱とは違った、骨折などもない気力の充実した土俵観が芽生えたのではないでしょうか。うつに叩きのめされた彼は、難しそうな顔をしながらも目には輝きが戻っていました。
 目の前の問題を解決することは難しいかもしれません。目の前の現実から逃れることは出来ないでしょう。しかし、目の前に新しい世界を開くことは誰にでも出来ます。それがたとえ妄想であってもいいのです。苦悩の土俵と快楽の土俵です。決してこのふたつの土俵を一緒に考えてはいけません。右は右、左は左です。こうして考えてみることで、私はこれまで幾度となく救われてきました。そして今も生きています。何かが変わって救われるまで諦めずに妄想しなければなりません。
苦とは思うようにならぬこと この世は苦に満ちているところ   夢人
平成26年11月1日
束の間の晴天だ 品川へ

(2)私は女性が好きです② 

 今週の日曜から月曜にかけ、箱根へ講演旅行に出かけました。(11月23日、24日)セミナーのテーマは『交流と笑顔』でした。私はテーマのことを聞いていなかったので、波動(生命体振動エネルギーと私は命名している)や、新しい医学の考え方について話をしました。
 さて、交流という言葉を聞いて私のなかで連想されたものは、診察室での患者さんとの面接場面でした。精神科の心理カウンセリングのなかでは、支持とか受容とか共感とかいった専門用語が使われます。大学の精神科医局時代には、それらの言葉の定義などを勉強しては患者さん方の面接に使用していました。ああこれが受容という技法なんだとか、振り返っては納得していました。今から考えると、他人事のようでした。そこには、生身の自分というものがなかったように思います。ましてや患者さん自身というものがあるはずもありません。それなのに、患者さん私生活までどかどかと無断で踏み込んでは、偉そうに『僕はこの患者さんを治すんだ』、『この苦しみから救い出すんだ』などと偉そうに考えていました。それは、ただの自己満足でしかなかったことなど、つゆほども考えていなかったのです。患者さんとの面接は勿論ですが、人と会話する時に大事なことは、聞き上手になることだと思います。聞き上手とは、ウンウンと頷くことだけではありません。受容とは、相手の心情までも汲み取る必要があります。相手に共感していないと難しいですね。支持とは、相手の身になって丸ごと支えてあげることを言います。そうなると、大学病院の頃と大差がないように思われるでしょう。その頃と違うのは今日のテーマである『女性性が女性性を求める姿』が会話における最も重要であると気付いたことです。
 女性性を介した交流の大切さです。正反対の男性性を介した場合を説明した方が理解しやすいかもしれません。
 男性性を介した交流は、効率的で前進的です。闘争的になることも度々あります。情愛は少なく、関係性の深まりは希薄になりやすいようです。一方、女性性を介した交流には、何と言っても優しさがあります。猶予があります。遊び心があります。しかし、効率が悪く、後退的な色彩を帯びてきます。
 特に高度成長期の日本では男性性を介した直線的な交流で発展を遂げてきました。そして、世界に類をみない経済大国となりました。豊かになって良かったことも多いのですが、増え続ける自殺者、難病、奇病の台頭など、さまざまな問題が噴出しています。いいことばかりは続かないものです。男性性でうまくゆかないならば、女性性があるさ。
 30年以上精神科医をやってきましたが、面接では圧倒的に治療者である私がしゃべっていたことを反省しています。ある時には教育的に諭し、ある時には自分の考えと違ったことを言う患者さんを論破することもありました。自分の経験を強要することもありました。自分の知識をひけらかすようなこともあったのではないでしょうか。
 治療者と患者さんは並列であると教えられてきました。患者さんの人権を守らなければいけないとも専門書には書いてあります。しかし、実際の医療現場では真逆の状態にあります。患者さんの声に耳を傾けたり、対等に話し合ったりすることは極めて限られています。勿論私たちは専門家ですから、素人の患者さんが知らないことは説明しなくてはいけませんが、あまりにも一方的になっているように思います。以前は“3時間待ちの3分診療”と言われましたが、今では1分診療となっているようです。私も仕事に追われる忙しい医療現場にいましたので、そうなるのは仕方がないということを少しは理解できます。医療現場は忙し過ぎるのです。しかし、これはまさしく男性性医療です。権威医療といってもいいかもしれません。患者さんが喜んで幸せを感じていればいいのですが、医療の本質、医学の原点が問われます。
 私が今、一番注意をしていることがあります。それこそ大学医局の頃に学んだ傾聴という技法です。患者さんの言葉に耳を傾けることです。30年以上も経っているのに、まだ傾聴が出来ていないのか。それはどうしても私のなかで男性性が頭をもたげるからです。つい口を出してしまいます。何がよいのか誰にも分からないこの世界で、人は何故分かったような格好をしたがるのでしょうか。男性性は権威の象徴です。この権威の根底には何があるのでしょうか。そうそう不安です。私たちは不安なのです。不安だから分かったようなつもりになったり、権威をふりかざしたりするのです。
 私は診察を始める前にこう呟きます。「私は彼女が好きです。」と。女性性を喚起させるのです。前回も述べましたがこれからの医療は女性性でないとうまくゆかないような気がしています。
 ガンも、インフルエンザも、高血圧だって糖尿病だって女性性の喪失から起っている気がします。だから、治療も女性性でしか解決できないのかもしれません。
母の手 父の手 白き温かい母の手   夢人
平成26年11月
紅葉の箱根路

(3) 人生 鏡の如し 

 皆さんは一日に一度は鏡を見ることがあるでしょう。一日の最初は洗面所で、歯を磨いたり顔を洗ったりする時でしょうね。女性はお出かけ前のお化粧する時にも利用されるでしょう。最近は電車の中でも使われています。器用にも、立ったまま化粧されている姿には驚きです。
 精神医学や心理学では、鏡面現象(ミラー・フェノミノン)といった専門用語があります。脳生理学でも同じような使われ方をします。これらはいずれも、事象を対象物に映し出す様を表しています。
 私は臍曲がりなものですから、違った捉え方をしてみました。私のクリニックは全館禁煙です。もう時効でしょうからこの際暴露してしまいますが、喫煙歴は50年になります。私は今58歳ですので、長くなってしまいました。雨の日も風邪の日も一日たりとも止めたことはありません。話が脱線してしまいました。それで朝(と言ってもお昼前ですが)クリニックに到着すると、カバンを持ったままクリニックの外にあるトイレで憩いの一時を過ごすのが私の日課です。排泄するわけではなく、立ったまま鏡の前で至福の時間を過ごすのです。
 午後からの雑誌の取材が予定されていたある日のことです。いつものように、トイレの鏡に映る自分の姿の前を紫煙が横切った瞬間でした。三つの連想が、流れる紫煙のように立て続けに湧き起こったのです。
 一つ目ですが、鏡は私の姿をそのまま映しているのではないことです。ご存知のように私の右は左に映し出していること。加えて二つ目は、私の実像ではなく虚像として映していること。右が左に、実が虚に逆転しているのです。この2点からもお分かりのように、鏡でさえ私たちの姿を正しく映し出していないのです。「上戸彩さんのように可愛かったら、私の人生はもっと違っていたのに」とか、「斎藤工さんのように色気があったら、俺の人生はバラ色だったのに」とか考えていらっしゃいませんか?大丈夫です。鏡はあなたを正確に映してはいません。よく鏡を見つめてください。ずっとですよ。
 三つめの連想です。毎日毎日ずっと鏡を見ていて気づきませんか。そうです。鏡に昨日のあなたが映っていますか?映っているはずはありませんね。今あなたが笑えば、幸せな笑顔が映し出されます。鏡はあなたの過去を残すことはありません。今あなたが悲観しているとすれば、それはあなたの脳に心に、あなたが悲しく苦しい場面を焼き付けているだけなのです。もちろん、明日のあなたを映し出すことも出来ません。ただ、今のあなたそのものだけしか映すことが出来ないのです。あなたが笑えば幸せな顔に、仮に悲しめば不幸せに映します。
 私たちの人生を苦しめているのは過去であり、未来なのです。もちろん、過去や未来で救われることもあるかもしれません。しかし妄想や執着を抱くことになるのでお勧めできません。今、確実に幸せになるためには、今のあなたしかありません。あなたが自分の人生を決定するCEO(最高(人生)経営責任者)なのです。
 鏡は右を左に、実を虚として映し出します。たとえ落胆することがあったとしても大丈夫です。鏡は今のあなたの人生そのものです。過去も未来も映せません。今のあなたにすべてがかかっています。
行きつ 戻りつ 今は今 不動心が見える   夢人
平成27年5月
五月晴れの博多

(4) 遊び心と可能性 

 メールをすると「分かりました」とか「変わりありません」と、こちらのメールに対して極簡単な返信をする人がいる。A子の場合もそうである。確かにこちらの問いに対して端的な返答であって、メール本来の目的は果たされているわけである。あまりにも同じパターンだったので、先日はA子にこうメールした。「少し遊び心を持ったメールをしたらどうか」と。A子は乳がんを患っているので、時々病状の聴き取りをしている。本人としたら変わりはないと思っているのだろうが、生身の体、状態は日々変化しているはずなのに。こちらとしては『メールを煩わしがっているのかもしれない』とも考えてしまう。心配をしてメールをしているのに。彼女のガンは本当に変わりがないのだろうか。その後、遊び心についての返信はないままである。
 ところがB子の場合には違っている。いわゆる長文のメールがほとんどである。今日は短めだなぁと思っても、絵文字がいたる所にちりばめられている。その中の極一部に、こちら側の問いの答えが挿入されている。彼女からのメールは長いため、混んだ電車の中で開こうものなら、問いの回答を見つけるのに一苦労する。まして鮮やかな絵文字が飛び込んで来ようものなら、隣の乗客の視線が気になって仕方がない。赤いハートマークがないとホッとする。「おいおい、答えだけ送れ」と叫びたくなる。常々B子には核心だけメールするように言い続けている。B子もまた幼い頃に小児腫瘍を患っていた。
 二人に共通しているものがいくつかあるが、最も目につくのは遊び心がないことだ。A子には全くない。余裕がないのかもしれないが、日本人特有のおもてなしという懐の深い遊び心に欠けている。B子はといえば、一見するとそれが多そうに映るが、そうともいえない。悪く言えばくどくてしつこいのである。慇懃無礼(いんぎんぶれい)といった言葉が当てはまるのかもしれない。しかし、冷静になって考えてみると、二人には不安が強いのであろうと思えてくる。これも一種の自己を護る自己防衛本能なのかもしれない。
 メールの受送信にも気をつけないといけないが、医療の現場でも受け答えには注意と配慮が必要だ。知人から頼まれて抗ガン剤の処方をした乳ガンの女性(C子)がいたが、主病名は乳ガンだということは話されたが、詳しい病状を言われない。頑なである。本人にとって食欲や便通などはどうでもいいのだろう。ガンがあって、転移もある事だけしか言われない。聞けば聞くほど不機嫌になられて、ついにはこちらまで不機嫌になってしまった。医療は一般の仕事と同じように、契約事である。結果、この女性との医療契約は不成立に終わった。C子がガンを患った原因は分からないが、何となくガンが発病した理由が分かったような気がした。
 前出の二人もそうだが、C子も遊び心が欠けている気がする。A子とC子は極端にない。B子は付録が多過ぎて、遊び心になっていないのである。
 遊び心とは、真綿に包み込むような柔らかさと、ひざの関節軟骨のようなクッションの役目をして衝撃から身を護る緩衝剤でなくてはいけない。“ほどほどに”とか“いい加減”という言葉に置き換えてもらってもいいだろう。
 現代医学は、ガンを始めとする悪性腫瘍や、子宮筋腫などの良性腫瘍に対して悪戦苦闘している。切るしかない、焼くしかない。しかし、切っても焼いても、腫瘍は次から次へと芽を出してくるモグラ叩きの状態である。
 遊び心で始まった今回の連想だが、遊び心を失った3人の女性は、腫瘍を患っていたという共通点を持っている。遊び心とは、ゆとりと緩みをもたせることに他ならない。遊び心をなくした心と体は、細胞から水分を奪い取り、脱水状態のなかでタコ糸が絡まるように硬く、手毬のように腫瘍細胞は増殖して固まっていく。締め付けられて息苦しく、呼吸困難に陥ったものがガンの正体なのかもしれない。
 緩めるということは許す、ということである。これまでの自分を許してみよう。心が緩むと体も緩む。遊び心で緩んだ心や体は瑞々しい。これが平成の必殺ガン克服法かも(なんちゃってね)。
どしゃぶりの雨 遊ぶ子供らには 満天から光の雨降る   夢人   
平成27年6月
梅雨の博多天神橋

(5) 灯台もと暗し 

 真夜中、突然右足指に激痛が走りました。平成28年5月、ゴールデンウィークの最終日のことでした。振り返ってみれば、予兆はありました。この連休初日、右足指の第1指に加えて、第2指と第4指の第1関節に軽い腫れと痛痒さがありました。私の持病の痛風発作の前ぶれだろうなあと意に介していませんでした。ただ、発作はいつも第1指の第3関節が腫れ上がって激痛が走っていましたので、いつもと違うなあと不思議さがありました。
 もうひとつ不思議だったのは、この連休の前半は長崎県の平戸市で私が主宰する研究所の平戸分室で、10数名の患者さんの往診治療に出掛けていました。その中で、見た目は私より病状がひどく、両足のすべての指が赤紫色に腫れあがった中年女性の足の指の治療をしていたのです。今でもよく覚えていますが、彼女に自分の足の指を見せながら治療の模範を示していました。彼女の今の状態は知りませんが、その時の彼女の足指は赤紫色からピンク色になり、痛みは改善していました。その日は平戸に宿泊し、温泉に浸っていた時に一度だけ激痛は走っていました。
 博多に戻って、連休最終日を迎えることになります。常備していたコルヒチンという激痛を抑える特効鎮痛薬を、何錠のんでも全く痛みは治まりません。突き上げる痛みでベッドに横になっていることが出来ずに、一晩中足踏みをしてやっとのことで朝を迎えました。足踏みといっても、床に足の裏を激しく叩きつけるのです。そうでもしないと激痛が緩和されないのです。こうした激痛は、次の日も、来る日も来る日も襲ってきました。
 梅雨が明ける頃には、第1指の爪と皮膚の間に裂け目ができ、潰瘍をつくっていました。真赤な足の筋肉がむき出しの状態になりました。当然、激痛は日に日に増すばかりで、あらゆる鎮痛剤を飲みましたが、全く効きません。私のこれまでの医療の経験のすべてを足の治療に向けました。足の動脈に血栓(血の塊)が塞がる大腿動脈塞栓症や、煙草が大きく影響しているといわれるバージャー病などを疑って、最先端の治療を投入しました。大好きな酒も煙草も、歯を喰いしばって控えました。完全に断酒と禁煙とまではいかないところが私の弱さでもあり、愛酒・愛煙家としてのプライド(?)かもしれませんね。(笑)。意地(?)でも酒も煙草も止めずに治してやる。酒や煙草が原因だと宣伝する現代西洋医療への反抗(?)だったのかもしれません(大笑)。歩くことが苦痛で耐え難く、ついに杖の出番を迎えました。
 夏が過ぎ、初秋の頃には予定通り治っていた、というわけにはまいりませんでした。足は悪化の一途を辿り、第1指に加えて第4指の爪の下にも裂け目が出来て潰瘍をつくり始め、秋の終わり頃には第2指にも潰瘍が芽吹きました。夏の終わる頃には、秋の終わりには治っているだろうという予想は無残にも崩れ続けました。ついには来年の正月までに治そうと目標の先送りが続きました。失望と挫折のくり返しで、年の瀬を迎えました。当然、足の悪化の火の手は治まらず、半年以上も大好きな風呂にも全身でつかれません。もうこの頃には身内も含めて周りの者は愛想が尽きたのか、社交辞令で大丈夫ですかとは声をかけてくれますが、中には冷ややかな眼差しもあったことでしょう。
 そして、年が明けて運命の1月2日の夜がやってきました。俗に初夢といわれる日です(一説によると、1月1日の夜とも言われますが)。俗に、夢に出てくるものが「一富士二鷹三茄子」であったら縁起がいいと言われてますね。1月2日と3日夜に、私は蛇の夢を見ました。今から想えば龍だったのかもしれません。その日もそれまで繰り返されていたように、激痛で何度も目が醒めていたある瞬間に蛇の夢で起こされたのでした。2日の時は恐いなあと思っていただけで、またすぐに眠りについて朝を迎えました。そして問題の3日の夜も、同じような蛇の夢が訪れます。蛇が苦手な私は、恐怖で目が醒めました。激痛で目が醒めたのではなくて、蛇の恐怖心で目覚めさせられたのだと思います。目覚めたら激痛がありました。次の瞬間でした。真暗闇の中で突然“白癬”という言葉だけが頭の中に浮かんできたのです。“白癬”という言葉だけがぽっかりと頭の中央に浮かんでいたのです。(ご存知とは思いますが、“白癬”とは“はくせん”と読み、俗にいう“水虫”のことです。)その瞬間、私はハッとさせられました。昨年4月からずっと私を悩ませ苦しめていた右足の指は「白癬症」だったのではないだろうかと。「爪白癬」ではなかったのだろうかと。おもむろに立ち上がって、乱雑にしまわれたいくつかの薬箱から白癬治療薬(水虫の薬)を捜し出して、足の指に塗って眠りにつきました。
 そして運命の日、4日の早朝やってきました。前の晩に痛み止めの目的もあって、たっぷりと大好きな日本酒を呑んでいて、いつもなら二日酔いが襲ってくるはずなのに、頭も体もすっきりと軽いのです。激痛があるはずの足の指にも驚きの変化がありました。チリチリとした痛みは残っているものの、腫れ上がっていた関節も穏やかになっているのです。症状の半分くらいが良くなっていたのです。
 私を10ヶ月近くも悩ませていた足の指の現在のとりあえずの診断は、『爪白癬症』といたしました。その原因は、おそらく昨年年明けから何度か行った日帰りの温泉(営業妨害になるおそれがありますので、場所と名前は明かせません)か、はたまた3月に宿泊した東京から北の方の温泉旅館でか。そういえば、部屋から大浴場に向かう時に履いたスリッパが妙に湿気を帯びていた記憶はあります。いつかどこかで「水虫」がうつったのでしょう。これからどうなっていくのか誰にも分かりませんが。もしかして、診断も治療も変えなければならない日が来るかもしれません。
 節分が過ぎて、足の具合は順調に改善へと向かっていうようです。これまでいろいろな方にお世話になり、ご心配をおかけしました。ある方は、御守りを持って来てくれました。ある方たちは、足の傷に効果があると思われる健康食品を紹介してくださいました。岐阜の先生は、ご自分で開発された遠赤外線エネルギーが出るシールや軟膏を毎週クリニックにお持ちくださって手当てして頂き、滞っていた血液の循環も改善されました。皆さんのお陰で、今のところ足の指を切断せずに生きておれます。
 私の長年の経験知と最先端の医療技法を駆使したこの10ヶ月間の自己治療は、一瞬の夢の啓示によって無残にも打ち砕かれ、治療は全く逆方向に舵を切ることになりました。今思えば、初動診断と見立ての誤りが悔やまれます。『灯台もと暗し』という諺を改めて思い知らされました。あまりにも目新しい専門的なものに目を奪われたばかりに、自らの身をもって開眼させられたのです。科学の進歩を否定するわけではありませんが、進歩の裏に忍び寄るものへの目配せと、進歩の基点となったところへの見直しは忘れてはならないことを痛感した今回の病気の体験となりました。
 今はこれまでの治療法に別れを告げて、改めて出会った海藻のエキスや、ソテツなどの植物エキスなどを配合したものを足の指に優しく塗って全快を祈っているところです。
 人間の知 愚かざること 灯台もと暗し 蛇に龍に 神の鉄拳   夢人
平成29年2月3日
目黒の初夢

3.夢人の翼 -新しい時代の新しい考え方の旅-

(1)可能性とは見えないもの 

 レストランでボトルワインを注文するとテイスティング(試飲)を勧めらます。気に入れば正式な注文となります(少々気に入らなくても断りにくいが)。私はワインの味がよく分からないのでやりません。断りにくいので。このテイスティング、そのワインの味が分からないために行われるわけです。分からないとか、知らないと不安になりますからね。知っているのと知らないということには大きな開きがあります。
 ここに木製の机があります。この机、一見隙間なくびっしりと成分が詰まっていると思いがちです。ところがこの机、顕微鏡で観察してみると隙間だらけです。ここにコップに入った水があります。水の分子構造はH2Oです。H(水素)とO(酸素)がびっしり詰まっているかのように想像しますが、実際この水も隙間だらけです。一説によると、どんなに水をぎゅうぎゅう詰めにしても全体の87%は隙間ということです。コップの水を外から見ても隙間があるとは思えません。隙間だらけのこのコップの水だからこそ、湯飲み茶碗にも入るし、ペットボトルにも入ります。この水は液体のまま存在することが出来るし、気体(水蒸気)や固体(氷)にもなれます。水は七変化することが出来ます。隙間だらけの水だからこそ、それが可能になります。隙間には可能性が秘められています。「遊び」といってもいいでしょう。
 机や水にも隙間があると分かったところで、何か考え方に変化がありましたか?机や水の見方が少し変わりましたか?隙間には可能性があります。未知なる可能性も含まれています。この地球上のすべての物には隙間があります。私たち人間も含めすべてのものは隙間だらけで、未知なる可能性が潜んでいるのです。
 話がそれましたがこのワイングラスに注がれたワインをそっと眺めたり、ゆっくりグラスを廻したりすると、今までとは違ったワインが楽しめるものです。このワインも、私のようなワインの味が分からない者でも私に合った美味しいワインに変化してくれるのです。テイスティングしてもしなくてもいいのかもしれません。テイスティングして断り切れずに注文したとしても、このワインそのものの見方や扱い方を変えてみれば、誰でもワインの達人になれるかもしれませんよ。
 息詰まる胸の重さ 吹き抜けて 秋の風   夢人
平成26年10月
晩秋の目黒路

(2)私は女性が好きです③ 

  先日の箱根のセミナーで、主催者から「なぜ年をとると時間が経つのが早く感じるのでしょうか」と質問されました。彼は冒頭の挨拶の中で「子どもの時にはドーパミンなどのホルモンが活発に出ていて、物事に対する好奇心が高くなるので、時間の経過が長く感じられると医学的には言われています」と話されていました。確かに、自分の周りに対して関心が高まると充実した時間が過ごせるので、時間が長く感じられるということは頷けます。反面、楽しく幸せな時間は瞬く間に過ぎていく感覚も同時にあります。好きな人に会えるまでの待つ時間は長く感じ、出会ってからの時間はあっという間に過ぎてしまいます。人間の感覚とは曖昧なものですね。
 私も年齢重ねてきて、確かに1年が経つのが早く感じます。時間の流れは一定でしょうから、私の老化が時間の観念に影響を及ぼしているのかもしれません、時間の流れに老化した自分がついて行っていないという、感覚のズレが時の流れ相対的に早く感じさせているのかもしれません。
 さて、『私は女性が好きです』との立場と、時間の流れとの関係を考えてみましょう。一般に、男性は知的観念が優性で、女性は感覚的観念が優勢ですよね。年を重ねて経験や知識が増えてゆくと、それを生かして物事を観察し、判断してゆきます。そうなると、特に男性は先を見据えて生きることになりますので、実際の時間の流れよりも先を行くことになるのです。結果、自らが独自の時間の流れをつくり進んでゆくことになって、時の流れが速く感じるのではないでしょうか。ガンの患者さんが余命何年と宣告されて、ぴったり当って亡くなることなどは同じような現象かもしれません。自分で先を決めてしまっているのですね。
 一方、女性は感覚的ですね。男性と違って知的に先走りすることなく、現在の周辺状況をじっくりと味わったり楽しんだりする能力に長けています。だから、子育てにも適しているのでしょうね。身の丈に合った判断が出来るので、失敗も少ないようです。
 男女の平均寿命にも大きな差があって、女性の方が5歳位も長生きしています。やはり、新しい時代は女性の特質と生き方を改めて学ばなければならないと思います。医学においても経済においてもそうです。私はゆっくり、じっくりと輝き続けている女性が大好きです。女性を愛し、女性に学びを求めると、時間の流れがゆっくり映って見えるかもしれませんね。私は、今日も新しく相談に来られた患者さんと話していて、気が付いたら1時間以上も経っていました。『行列が出来るクリニック』では考えられないことでしょう。人は私を『暇人(ひまじん)』と呼びます。私のクリニックも、いずれ『閑古鳥が鳴くクリニック』と呼ばれるでしょうね。もうすでにそう呼ばれているのかもしれませんが。でも、それが私の理想とするクリニックの在り方ですから、いいのです。行列が出来るとは、裏を返せば治っていない人が大勢いて、そういう人が集まっている光景にも映ります。治りの医療が、治しの医療が私の願いです。
 急げば病気 急がねば治り 分かっちゃいるけど止められねぇ   夢人
平成26年12月
気ぜわしい選挙戦の新橋

(3)英雄 色を好む 

 定年退職後に、奥さんと別れるという男性がいらっしゃった。私の身近に近々離婚するという女性がいらっしゃいます。数年後に定年をひかえて離婚の約束が出来ていると男性は言われます。片や女性の場合は、夫には何の素振りも見せずに、一方的に考えていらっしゃるようです。男性の場合は、良妻賢母を演じてこられていたのが急に手の平が返り、三下り半を突き付けられたうえに、財産に加えて退職金の折半を約束させられてあるようです。一方の女性は近い将来、突然夫に対して三下り半を突き付けられるのでしょう。どちらも今はやりの(?)熟年離婚になるのでしょう。双方の計画性には違いがあります。男性の場合は、不承不承にも離婚に同意させられて知っていること。女性の場合は、相手方の夫は全く知らされることなく女性の計画の下に話が進んでいることです。どちらも背筋がぞっとする話でしょう。この話の結末は、機会があればツイートすることもありましょう。
 さて、今日のテーマは『英雄 色を好む』です。快楽ホルモンといわれるドーパミンや、愛情ホルモンといわれるオキシトシンなどの脳内ホルモンの観点からの解釈は、別稿に譲るとしましょう。今、日本が抱えている少子高齢化社会を打開するための奇策(笑)として、私が若い頃から抱き続けてきた妄想があるのでここでお披露目しましょう。あくまでも妄想ですからご了承くださいませ。
 先にもお話ししましたように、女性は強くてしたたかですね。前出の女性、一人は突然夫に離婚話を突き付けました。もう一人はそうされるおつもりのようです。夫である男性は青天の霹靂で、目の前が真っ暗でさぞや・・・・。女性の、男性に対する反逆であり、無謀です。「それ見たことか」の怨念が垣間見えます。「ああ恐ろしい」。「明日は我が身」です。世の男性諸君、心してかかられよ。
 終身雇用制度の崩壊と相まって、男性家父長制度も崩れてしまって、昭和の男性優位型社会はほぼ体を成さない状況に追い込まれています。今や平成型ウーマン・リブの津波が押し寄せていますよ。
 さて、いよいよ本題です。ですが、『英雄 色を好む』の話は致しません。先日、女性医師が痛快に男性医師世界を切り裂くTVドラマが大ブレークしました。シリーズ2作目の放映がありましたが、そこに出てくる名セリフの「私は失敗しませんから」ではなく、「私は失敗したくありませんから」で、男性が優位な立場になるような妄想はしたくありません。女性群の一斉放火を浴びて痛い目に合うのは分かっていますからね。
 先日、面白い週刊誌の記事が目に留まりました。雑誌の名前は、週刊○○としておきます。私が密かに想いを寄せていた女流作家の記事です。それは今は黄泉の国へ旅立たれた宇野千代さんに対する、回想される瀬戸内寂聴(旧:瀬戸内晴美)さんの記事です。お二人とも破天荒なところが魅かれる理由です。
 私の宇野氏への回想ではなく、瀬戸内氏の回想談をそのまま以下に引用してみました。
 『作家の宇野千代さんも98歳で亡くなる最後まで恋愛をしていました。
 宇野さんが88歳の時に対談をしたんです。私が「女は同時に何人もの男と付き合える」と言うと、宇野さんが「そうよ。何人でも付き合えますよ。寝る時は一人ずつですから」と答えてくれました。あの時は本当に吹き出してしまいましたよ。
 その対談の際、聞けるうちに何でも聞いておこうと思っていろいろ質問しました。それで、宇野さんの経歴の中から文学関係の男たちの名前を書きだして、「先生、この人についてはどう思いますか」と言って名前を一つずつ指差すと、宇野さんが「寝た」と言うの(笑)。
 そんなことを聞くつもりではなかったんですが、別の人を指差して「先生、この人とは」と聞くと、「寝ない」と言うんです。「寝た」「寝ない」で迷わず選別していって、小林英雄さんのところに来たら、急に黙っちゃった。
 それで、「先生、小林さんは」と聞くと「寝たとも言えない、寝ないとも言えない」と言うんです。
 「それって、どういうことですか」と確かめると、「雑魚寝だったから、うまくできなかったの」と言うんです(笑)。文壇のお歴々を「寝た」「寝ない」で片づけちゃう。しかも、そこで挙げた男たちの半分以上とは「寝た」と言ってました。面白い人でしたね。』
 さて、皆さん、どうでしたか。宇野さんもすごいのですが瀬戸内さんも若い頃はその点ではお元気でご活躍だったのでしょうね。お二人には感服致します。女性パワーには驚かされます。でも嫌味がなくてとても素敵です。
 今日は『英雄 色を好む』の話をするつもりでしたが、冒頭の二人の女性のしたたかさ、加えて宇野氏、瀬戸内氏の傑出した女性力に出会って、逆転の発想と相成りました。「英雄 色を好む」とか「好色一代男」も負けてはいられませんが、やはり今日のところは「聖女 色を好む」や「好色一代女で締めくくった方がよさそうですね。
 今、私の連想の中には、女王蜂を中心として多数の働き蜂が集う風景と、女王蟻に集まる無数の働き蟻の光景が交錯しています。女性強し。私は平成ジャンヌ・ダルク構想と称して、母性優先型社会の構築を目指しているのですが、大変参考になりました。また新たな妄想が爆発しそうです。
 最後になりましたが前に私が妄想と言った内容を明かしておかなければお叱りを受けるでしょうね。小さな声で申します。少子高齢化対策の一つとして、宇野さんや瀬戸内さんではありませんがもっと自由な恋愛観を持ってみてはどうかということ。そして周囲ももっと柔軟性のある理解を示してみてはどうだろうかということ。もちろん男女平等の社会ですので『英雄だけではなく万人が色を好める』も合わせて構成された社会です。子どもが増えるかも。実現不可能でしょうね。きっとまた性道徳が乱れて収拾がつかなくなる。先日も元校長が某外国で一万人以上の女性と性的関係を持って逮捕されたじゃないか。そのうちに未成年者が含まれ卑猥な写真までスクラップしていた事件を知らないのかってね。ごもっともです。紳士・淑女的に礼節心を持って行わなければならないなんて言っても通用しないでしょうね。節操のない妄想でした。すみません。失礼致します。合掌。
男は右廻り 女は左廻り 相思相愛にて メビウス・リング   夢人
平成27年5月
銀座プラタナス通りにて

(4) 人生の杖 

 28年6月、人生初の杖つき歩行が始まりました。4月下旬に始まった謎の病気襲来で、右足の指が腐り(壊疽:えそ)始めて、激痛と腫れのために思うように歩けなくなったからです。
 これまで持病の痛風発作で足の指が腫れ上がって、激痛のため年に何度かこうもり傘を杖替りにしたことはありましたが、正真正銘の杖の使用は初めてのことでした。
 足の指はあらゆる治療の甲斐もなく、病状は悪化の一途を辿りました。逆比例するかのように、杖の必要性と有り難みは増していきました。実際に杖を使ってみて気づいたこともありました。私の場合、不具合が生じている右足側、つまり右手に杖を持つのが常識ですね。ある日、利き腕である右手を別の目的で使わなければいけなくなって、仕方なく左手に杖を持ちました。ところが、何と左手に杖の方が歩きやすいのです。あれ?それからというものは、足の激痛と闘いながら一方では杖を右手に持ったり左手に持ったりして楽しんでいる自分がいましたね。要は、不具合が生じて機能低下に陥っている右足の負担を補って、補足出来れば良かったわけですね。「杖はどちらの手に持ちべきか」という問題に楽しみながら悩みながら考えた最先端医療(?)に身を置く私の結論としては、「杖はどちらの手に持ってもいい」というものでした。
 どうですか皆さん、素晴らしい医学理論でしょう(どや顔の僕)。調子に乗って、もうひとつおまけに二つ目の理論です。杖は利き腕に持つべきだということです。私の場合は、利き腕は右手になります。今回は、たまたま不具合側の右側です。私たちは不具合を持ちながら街に飛び出すと、行き交う人が恐怖に思えます。私の場合は、近づいて来る人や混み合う電車で、腫れ上がって激痛が走る右足を踏まれたり蹴られたりするんじゃないかと怖いのです。そんな私が道を歩く時には、後ろから来る人が私を突き飛ばさないように彼女が私の後ろをガードしてくれました。ある患者さんは痛々しい僕の姿を見て、満員電車で足を踏まれても大丈夫なようにと安全靴をプレゼントしてくれました。靴のサイズは29㎝。私の足は26㎝弱。そうそう忘れるところでした。杖は、利き腕側に持っていた方がいいと思うのは、体に不具合があると、このように体は不安定になるのですが、心も不安定になってしまうのです。ある夜のこと、東京タワーはどちらの方か判らなくなった彼女に向かって、持っていた杖の先でタワーの方向を指し示したことがありました。その時、彼女がこう言ったのです。「先生、杖で指すと皆が恐がりますよ」ってね。その時ふと思ったのです。杖は凶器になるんだってね。杖を持つと、何とはなしに心が落ち着くのはそういうわけがあったんだ。護身用としても使えますよ。だから利き腕の方が良さそうです。咄嗟の時などにエレベーターのスイッチを杖の先で押したこともありました。内緒の事ですが。
 私が凄い理論だと自画自賛するわけを、次に解説してみましょう。病気や事故で不具合が生じると、当然体は不安定になるのですが、精神的にも動揺が走ります。そんな時に何か頼りになるものが自分の外側にあると、安定し安堵するのです。杖といった物質的なものであってもいいでしょう。信心深い方なら、信仰という非物質的なものでも救われますね。信心深くなくてもいいのですよ。神社にお参りされてもいいんじゃないでしょうか。これが私の誇る三つ目の理論。四つ目もあります。自分の心の中に心の杖を持つことです。好きな人のことを想ったり、病気が治った自分の姿でもいいのです。そして、五つ目です。いや、これは次回のお楽しみにしましょう。六つ目もありますが、これは誰にも言えませんよ。墓場まで持っていきます。いつか、何処かで口が滑って秘密を漏洩するかもしれません。ああ恐ろしい。
 昨年4月に始まった苦悩の日々から、もうまもなく解き放たれようとしています。でも、私の中に幾ばくかの不安がよぎるのです。足が良くなっても、この杖を手放せないのではないかってね。この杖はもう私の体の一部になってしまって、杖のない私は想像が出来ないのです。自分の体の一部をはぎ取られるように辛いのです。
 体の不具合は改善するのに、いつの間にか治ることが私から何かを奪い去って行こうとしているのです。この右手に持った親愛なる杖とともに私の心の中に息づいた漠然と輝く宝物を、強奪してゆこうとしているのです。
 息子よ杖になれ 娘よ傘になれ 慈父の願い   夢人
平成29年2月
バレンタインの東京タワー

(5) 上善如水 


 今年のゴールデンウィークは、10日間も診療所を休みにして実家のある福岡でゆっくりしています。博多どんたくの囃子(はやし)も心地良くて、朝から傾けた盃はほろ酔いを誘う毎日です。
 幸せな時間が流れているのに興醒めするのが、TVから流れてくる北朝鮮のニュースです。毎朝毎晩ですからたまりません。米国の空母カールビンソンが東シナ海に近づいている。大陸間弾道ミサイル実験をした。片や核実験の準備や砲弾訓練をする北朝鮮。米朝関係だけではないでしょう。世界の至る所で紛争や事件は止むことがありません。大規模な飢餓や大災害などで、私たちの住む地球は危機的状況に陥っているというのに。昨日も私に向かって親しい知人がこう言うのです。「先生、北の核ミサイルが飛んで来るかもしれないので、放射能汚染に備えておいて下さいね。東京だったら大江戸線が地下深いから、待避するのにはいいそうですよ」ってね。想い出しますね。6年前の東日本大震災の時のこと。また違う友人から「先生、雨合羽持っていますか?」「今すぐ大阪の方に逃げて下さい」って言われた時のことを。でもね、4~5日もすると皆んなね、何事もなかったように雨合羽を着ていなかった時のことをね。口では今度の地震はひどかったねと言いながらも、新橋辺りでは何事もなかったかのようにサラリーマン諸君は、居酒屋で美味しそうに酒を呑んでいましたよね。
 ミサイル問題などはともかくとして、東日本大震災を超える大震災は必ず起きるでしょう。スーパー台風などの自然災害対策だけはぬかりなくしておいて下さい。備えるべきは自然災害(天災かも)です。私たち人間の欲望が大きく関与して、この大自然の循環を狂わせていることも忘れないようにしましょう。
 話を核心に戻しますね。若い頃、上善如水(じょうぜんみずのごとし)という日本酒(新潟県)を呑んで、愕然としたことがあります。これまで口にした日本酒と全く違っていました。ラベルに綴られた名前の如く、水のように口から食道を通って胃袋に快感が流れ落ちるのです。あの酒が世に出て、全国の日本酒の流れが大きく変わりました。私だけではなく、世の女性たちをも虜にしてゆきました。今の世界情勢も世界経済も教育も、グローバリゼーションの名のもとに国境を越えて肥大化してきています。耳触りは良いのですが、底流には何らかの破壊性も肥大化してきていることを感じずにはいられません。
 環太平洋パートナーシップ(TPP:Trans Pacific Partnership)協定も然り。これは太平洋周辺の国々の間で人・物・サービス・金の移動をほぼ完全に自由にしようという国際協定ではありますが、何かしっくりときません。言い出しっぺはどこの国なのか知りませんが、我欲が渦巻いているようで、手離しで賛成する気になりません。それぞれの国家、それぞれの国民にそれぞれの考え方があるでしょうから、一つの取り決めが果たして可能なのでしょうか。不満は出ないのでしょうか。地球国家のためとはいえ、限定された規制がまかり通るのでしょうか。考えれば考えるほど疑問が湧き起こってきて、学生時代を思い出してしまいます。今でもその評価・判断方法が採用されていると思います。試験の合否を決定するのに赤点というものがあって、65点以上は合格で64点以下は不合格で再試験という制度がありました。今でも65点と64点、そんなに違うのかって怒りと怯えに苦悩した頃のことを思い出してしまうのです。
 若い頃私は、夢人会(むじんかい)という雑学の会を立ち上げました。毎週いろいろなテーマで、私の考えを集まった皆の前で披露していました。その頃生き方の中核に据えていたのが“どん底思想”でした。山の頂きを目指すのではなく、底に、それもどん底に浸るという考えでした。バブル経済の絶頂期にそんなことを話すのですから、皆さん驚いてばかりでした。周囲の人たちから「先生の考えは50年早い」とかよく言われていました。褒められているのか、けなされているのかよく分かりませんでした。悪くとれば非現実的で、実現不可能ということになるでしょう。でもそれから、ずっと今でもその頃の考え方は変わっていません。競争社会に疲れて怯え、毎日を送った結果、生きてゆくために編み出した苦肉の考え方だったからです。
 老子は考えました。彼は「上善如水」と言います。「無為自然」と言いました。「上善如水」とは、水のように「争わず、低きところに留まる」という生き方です。「競争から逃げて生きる」とか「負けを認めて後退する」ということではありません。水は高きから低きへと流れます。この地球上のすべてを包み込み、洗い清めます。この地球上で最強の能力を秘めています。争わずに最強なのですよ。
  子どもの日 生まれたままに 無為自然に 鯉のぼり   夢人
     
平成29年5月
雷雨の博多どんたく港まつり

最新医療情報

2018年4月 20分で花粉症を忘れた!

茶畑 花粉症に効果が期待される“緑茶”をご紹介致します。
緑茶は、抗酸化力の高さから注目されています。
アレルギー症状をおさえる緑茶成分「カテキン」が含まれています。その中でも、茶葉にだけ含まれているのがエピガロカテキンガレート(EGCG)。
強い抗アレルギー作用があり、ビタミンE(老化防止)、ビタミンC(コラーゲン含成)、フラボノイド(血管壁を強化)も含んでいる。この有効成分がアトピーや花粉症に効果がある。

しかし、お茶として入れると100%抽出されないため研究開発されたサプリメント、“チャブロック”農薬未使用茶使用です。
特殊製法で精製された「貝殻焼成カルシウム」を加えることで酸化を防ぎ、人体内への消化吸収を著しく向上させる効果に注目!
酸化しやすいエピガロカテキンガレード(EGCG)をほぼ100%そのまま体内で消化吸収させることが可能!
【チャブロック(錠剤タイプ)1年間飲み続けた方のモニター調査結果】
 ●花粉症、アレルギー性鼻炎等の症状緩和
 ●風邪をひかなくなった
 ●生理不順がなくなってきた
 ●便秘が改善した
 ●寝起き、寝つきがよくなった

検診結果から
 ●血糖値210以上が1ヶ月後140以下になり安定している
 ●体脂肪率が下がった
 ●体温が低く35.3度だったのが36.3度に上昇した
 ●血液の流れが良くなりサラサラの結果がでた

※詳しくお聞きになりたい方、当院にお気軽にお問合せ下さい。

2017年9月 寝たまま体操

寝たまま体操 家庭でも手軽にできる“寝たまま体操”を紹介したいと思います。

○日頃一寸歩きづらいことはありませんか?
○歩くと直ぐに疲れ易くありませんか?

そんな時は、家庭で寝たまま出来る体操をしてみませんか?

当クリニックでは、寝たまま体操を行っています。
寝たまま体操とは・・・?
「ちょっと歩きづらいなぁ」「歩くと直ぐに疲れてしまう」
「転びそうで歩くのが恐い」等のお悩みのある方に簡単で痛みもなく
行える体操です。

ポイントは・・・?
ご本人が「治したい」「良くなりたい」という気持ちを持って、
動かしやすい方の足を中心に行うということです。

Q:クリニックに行かないとできないの?
A:何度かクリニックで行い覚えて頂ければ、ご自宅で一人で行える
ようになります。

是非、試してみたい方、詳しくお聞きになりたい方、当院にお気軽に
お問い合わせ下さい。
スタッフ一同お待ちしております。  

2017年8月 夢中に奇蹟あり

足の血行障害 私は昨年4月末、右足指が腫れはじめて、夏場には3本の足指先が腐りはじめて潰瘍をつくりました。一部骨が見え、むき出しになり激痛で杖なしでは歩けなくなりました。
閉塞性血管炎などを疑って、自分なりに治療を続けました。抗生剤や鎮痛剤、麻酔剤を連日連夜服用、塗布しましたが、全く効果はなく日に日に症状は悪化の一途を辿りました。
足の切断を覚悟しながらの年越しとなり、正月2日の夜を迎えました。夜中に激痛と共にある夢を見て目醒めました。その翌日も同じような夢を見て目醒めました。二晩とも蛇(龍のような生きもの)の夢で恐怖と激痛で目が醒めました。すると、もうろうとした中で私の頭の中に水虫(白癬)という言葉が浮かんだのです。すぐさま水虫の薬を塗ったところ、翌朝痛みは軽減して傷口がふさがり始めていました。
原因が水虫だけだったわけではなく、不摂生もあり足の血行障害があったのでしょう。しかし、水虫の薬によって、その日を境に見る見る傷が治り始めたのです。
エドガー・ケイシーが睡眠状態で病気の治療をしたという事は知っていましたが、まさか、自分の病気の治療法が自分の夢に現れるとは夢にも思っていませんでしたね。
ご参考までに、私の足の軌跡(奇蹟)を公開しておきましょう。

平成29年8月16日 夢人
足の血行障害1 足の血行障害2